「美育文化」95年6月号

幼児教育とコンピュータの出会い

 

 まず最初に言い訳をさせていただきます。私は美術教育の専門家ではなく、単に幼稚園での保育にコンピュータを導入しているだけの人間です。ですから、美術教育についての造詣は、この「美育文化」に執筆していらっしゃる先生方や読者のみなさんの足元にも及びません。このような専門雑誌に執筆するような立場ではないのですが、幼児教育全般から見たコンピュータの持つ可能性と問題点を、造形表現の分野も絡めながら述べさせていただきます。

●幼児教育の特殊性

 幼児教育の目標や方法は小・中・高の教育のそれとはかなり異なっています。したがって、コンピュータを含む「教材」の扱いも、小学校以上の教育現場からのアナロジーを持ち込むと、かなりの誤解を生むことになってしまいます。そこで、幼児とコンピュータの関わりを述べる前に、幼児教育関係者以外の読者のために幼児教育の特徴について述べなくてはなりません(このあたりについては本号の安部富士夫先生の文章が参考になると思います)。

 幼児教育の分野では「授業」とか「教科」という概念はありません。幼児は生活の中で主体的に様々な経験をすることによって学習し発達するという基本的な考え方があるためで、『業を授ける』とか『時間を切ってある分野の学習をする』というのは幼児期の発達の姿にそぐわないからです。「幼稚園教育要領(学校で言う「学習指導要領」にあたるもの)には「健康」「環境」「言葉」「人間関係」「表現」という5つの「領域」が記されていて、あたかも教科のように理解する人もいるようですが、これらの「領域」とは『子どもは主体的に活動するなかで様々なものを学習し発達しているが、それらを便宜的に分類してみると5つに分けることが出来る』というだけで、けっしてこの5領域を分けて教えなさい、といっているのではありません。(以前の教育要領では領域が6つでした。ある幼稚園長が「6領域が5領域になったのは、学校5日制になって1日減ったからですよね」と発言して顰蹙を買ったという有名な笑い話は、以上のことを理解していない幼児教育者が多いことを示しています)。

 言い換えると、幼児が主体的な活動を行う上で、幼児の発達に必要なものが含まれているような環境(物的環境だけでなく人的環境も)を用意することが、幼児教育の内容であり方法でもあるのです。たとえば、砂場での子どもの様子を観察すると、砂で何かを作りながら、自分の行動を言葉でつぶやいたり、歌を口ずさんだり、他の子どもと協力したり、花びらの色水を窪みに溜めてみたりと、様々な経験をしているわけです。教師はそこにさりげなくシャベルを置いたり控えめなアドバイスをすることで、その子の活動や経験が広がり、豊かになることを援助します。

 以上でおわかりのように幼児教育には「図工」とか「美術」の授業はないのです。ですからコンピュータにしても、特に美術教育・表現教育に有効かと尋ねられても、明快に答えることは出来ないのです。

●幼児教育「神話」とコンピュータ

 幼児教育のキーパーソンといえば、やはりフレーベルと倉橋惣三でしょう。この2人とも幼児教育の基本として「直接体験」と「自然環境」の重要性を説いています。このことが、コンピュータを含めて「機械」とか「メディア」を幼児教育に導入する大きな障害になっています。私が幼稚園にコンピュータを導入していると言うと、10人の幼稚園関係者のうち8人までが目をひそめたり、口に泡を吹きながら感情的に反論したり、皮肉な笑いをもらします(あとの2人のうち1人は「何がなんだかわからない」と言って去っていき、最後の1人は「園児獲得のよい目玉だね」などと、とんちんかんな賛意を表して下さいます)。幼児教育にコンピュータを導入するということは、友達や仲間を失うことになりかねないのが現状です。

 たしかに新しい遊具を取り入れるときには慎重にすべきでしょう。でも、コンピュータは保育者の教育観や幼児理解がしっかりしていさえすれば大変すばらしい遊具になり得ると思っているのですが。

●表現する子どもたち

 私の園では「コンピュータ・ルーム」という部屋があり、いろいろな種類のコンピュータが合計12台置いてあります。子どもたちはこの部屋に自由に来て、自分の好きなコンピュータで遊んだり、絵を描いたり、折り紙を折ったり、絵本を読んだり、小麦粉粘土で何か作ったりしています。機械の使い方については最低限の「約束(叩いたり蹴ったり投げてはいけない、画面を舐めてはいけない、仲良く使えるように工夫をする、など)」をしますが、ソフトの機能などについては子どもたちの試行錯誤による発見を待つようにしています。その結果、子どもたちはわれわれ大人が考えもしなかった使い方をしてくれます。タッチパネルを、指ではなく鼻やおでこを押しつけて操作し、描けたものを見て笑いあったり、キッドピクスで何も描かずにただ「爆弾消しゴム」で画面を爆破して楽しむ子どもたちを見ると、善し悪しは別として、新鮮な驚きを覚えます。マウスを2〜3回押しては部屋中を走り回る子ども、お絵かきソフトでなぐり描きをしながら「かいじゅうめ、ウルトラマンがやっつけてやる」などと、一頃流行したパフォーマンスアート(?)を実行する子どもなどもいます。

 子どもたちはコンピュータを媒介として、様々な形で「表現」しています。造形的な表現もありますが、言語表現・身体表現など、子どもにとって表現手段は区別がありません。色彩感覚や形の弁別・構図の理解など(専門的なことはわかりませんが)は、その経験の中から子どもたち自身が主体的に獲得していくものであって、あえて大人が指導する必要性はあまり感じていません。

●表現手段としてのコンピュータ

 これまで、子どもたちは様々な手段で表現しているのであって、コンピュータもそのひとつであり、それ以上でもそれ以下でもないということを書いたつもりです。では、コンピュータは幼児の表現手段(あるいは環境)としてどのような長所・短所があるのでしょうか。

 これまでにもこの「美育文化」誌上で何人かの方が述べているように、コンピュータでのお絵かきの最大の特徴は「やったことを簡単に取り消せる」ということだと思います。この特徴はメリットであるという論調が多いようですが、私の経験では、この機能は諸刃の剣です。たとえば、紙とクレヨンでのお絵かきにとても不安を持つ子どもがいます。一度描いてしまったら「取り消せない」恐怖を感じているようです。そのような子どもたちにはコンピュータのお絵かきは大変有効で、数回コンピュータお絵かきを経験すると、紙とクレヨンのお絵かきにも自信を持てるようです。しかしその一方で、ただなぐり描きをして「爆弾消しゴム」で消すということを繰り返す子どももいます。その子たちはいつまでたっても「これを描きたい」「こんなふうに描きたい」という意欲や姿勢が見えません。「おまえの保育が悪いからだ」という批判も当たっているとは思いますが、このような、コンピュータの安易性については十分注意しなければならないと思います。

 同じような話ですが、コンピュータでお絵かきをすると、その子どもの能力以上の作品が出来ることがしばしばあります。お絵かきソフトには、ユーザーの技術を補ってくれるような機能が沢山あって、たとえばきれいなマル(真円でも楕円でも)や四角を描いてくれるもの、グラデーションで塗りつぶしたり線を引いてくれるもの、ギザギザな線で描いたりや絵の具のしたたり、エアブラシの表現などをシミュレートするもの、果ては作品にエフェクトをかけて印象派の絵のようにしてくれるものなど、私のような「絵音痴」にはとても便利なのですが、子どもにとってもそれらの機能が実現してくれる「意外性」のある結果は大変魅力的です。しかしこれは落とし穴ではないでしょうか。

 今書いたように私は大変な「絵音痴」で、小学校から高校までをとおして、図工や美術の教科で「3」以上の点を取ったことがありません。それでも園長などになったものですから、少しは造形的な分野でも格好良く見せたいと思って、ある造形作家に相談しました。その作家が言うには、私のように感性もなく不器用な人間は、陶芸をやるのが良いとのことでした。もちろんプロの陶芸家は感性も技術も当然優れてはいますが、私のようなものでも陶器を焼いてみると、それなりの見栄えがするのだそうです。絵や彫刻はその人の芸術性がもろに見えてしまいますが、陶器の場合は一度火を入れるという過程で意外性の要素が加わるので、稚拙な技術や美的センスの人間の作品でも、それが味になる、というわけです。

 コンピュータでの造形表現もこの話ににているような気がしてなりません。そのような「意外性」「偶然性」も芸術なのだ、という論は理解できますが、それも程度問題でしょうし、そのような分野の芸術家は(たぶん)造形表現の基礎はきちんと学習しているはずです。基礎がある者がその基礎を超えるものを作るために「意外性」や「偶然性」を利用するのと、基礎など何もない者がそれらに頼りきって(甘えきって)遊ぶのとは訳が違います。

 ただ、この辺の話は微妙なところがあります。たとえば、コンピュータのお絵かきソフトではある色を使いたいとき、カラーチャートから選ぶだけで絵の具の色として利用することが出来ます。時間がたってから同じ色を作りたいときは、(いくつかのやり方がありますが)「スポイト」という機能を使って絵から色をもらってくれば完了です。それに対して従来の素材、たとえば水彩絵の具や油絵の具では、ほしい色を正確に作るのにはかなりの経験と勘が必要です。しかも、時間をおいて同じ色を作るとなったらまた最初からやり直しです。幼稚園でよく使われるクレヨンなどでは、混色など考える方が無謀です。

 このような、本来の「表現する」という目的以外の無駄な作業の効率化は、特に幼児にとってはありがたいものではないかと思います。もちろん「そのような無駄と思える作業こそが感覚を鋭敏にしてくれる」とか「幼児にはそのような無目的的な活動が大切だ」という批判は承知していますが、そのような活動や経験は従来の素材で行えばよいのではないでしょうか。

●コンピュータの留意点と可能性

 また、コンピュータでの遊びは非常に魅力的なので、ともすると子どもたちのあそびがコンピュータ一辺倒になりがちだということも考えておかなければなりません。私はコンピュータでの活動が、子どもたちの日常生活(言い換えれば、遊び・総合的活動)の中で様々な活動・経験とリンクするような環境を設定しなければいけないといつも自分に言い聞かせています。これまでの実践から例を挙げてみます。

・子どもたちが電車の絵を描いて遊んでいた。保育者が「この電車。コンピュータの中で走らせてみようか」と声をかける。子どもたちにはまだそのようなことは無理なので、私達がスキャナー(画像取り込み機)で絵をコンピュータに取り込み「ディレクター」というソフトを使って線路の上を走るようにした。子どもたちは大喜び。「ガタゴトガタゴト」という音をコンピュータに録音して、電車が走るときに再生できるようにしたり、電車に乗るための切符をみんなで作ったりして、乗り物ごっこに発展した。

・もうすぐ遠足というある日、子どもたちは動物園に行く期待感から動物の絵を描いていた。模造紙に描いた動物園絵を貼っていったが、やはりそれらを動かしたくなって、保育者にせがむ。前例と同様に、全ての動物の絵を「ディレクター」で動かすようにすると、子どもたちは動物の鳴き真似を録音し出す。キリンやウサギなど、鳴き声がわからない動物には困った様子。遠足当日は、自分が描いた動物の檻の前に行くたび、コンピュータの中の動物の動きと比べたり、鳴き声に聞き入る姿が見られた。

 今後も「コンピュータで遊んでいたら、牛乳パックで何か作りたくなっちゃった」とか「外で遊んでいたら、とてもおもしろいことがあったから、コンピュータで描いて友達に見せた」などという有機的なつながりが出来たらと思っています。まだそこまでは到達していませんが。

●子どもたちの個性を大切に

 幼児教育のもう一つ大事な理念は「個性を大切にする」ということです。そのため、私達は「必修ソフト」というものは考えていません。小・中・高では「単元」という具体的学習内容・目標があるため、「○○君はこれをやるけれど、××さんはやりたくないからやらなくて良い」というわけには行かないかもしれません(「できる」とおっしゃる方もいることは知っていますが)。その点幼児教育は単元による教育ではないので子どもたちは自分の好きなソフトを選んで好きなように遊びます。あまりいつまでも同じ事をして遊んでいれば、他の遊びもおもしろいよ、というヒントやアドバイスを伝えることはしますが、基本的には子ども自身が自分の興味や能力にあわせて遊びを選び、表現手段も選ぶのです。ただ、単に「子どもが喜ぶからこのソフトは良いソフトだ」などというだけで子どもに与えるような、教育的ねらいのない選択は厳に戒めなければなりませんが。

●おわりに

 以上に述べてきたことは、今小学校などで議論されている「主体的学習」「新しい学力観」「生活科、合科」などのトピックと同じ事のように思えます。口はばったい言い方ですが、そのような考え方は、幼児教育の分野ではもう100年以上前から存在していました。「造形表現」の分野についても例外ではありません。ですから、幼児教育に携わるものたちの間では当然すぎるパラダイム「教育の質を決めるのは、教材や遊具そのものよりも、それを提供し経験を促す教師の質である」ということについて、コンピュータを導入する際にもより深く議論されることが大切であると考えています。

 ご意見・ご批判をお待ちしております。

Mail Address: ogawa@futaba.ac.jp