「洗足論叢」1996.12.
はじめに
近年、我々を取り巻く社会の中にコンピュータその他の電子機器が浸透し、人々の生活にも多大な影響を与え始めている。ともすればこのような機器の使用の否定的な部分が拡大的に喧伝されることもあるように思えるが、振り返ってみると過去にも電話・テレビなどの機械が社会の中に浸透してきた際にも同様な現象が繰り返されており、「電話によって人々が実際に会ってコミュニケーションを行ったり手紙を書く機会が少なくなる」「テレビによって家族の団欒が変質したり、人間が受動的になる」等といった批判的・悲観的な意見がその都度巻き起こった。しかし、現在でも我々はその問題を完全に克服しきったとはいえないまでも、そのようなそれぞれの機器の特徴を理解し、出来得る限り短所を減少させつつ、電話の即時性、テレビの情報性などといった長所を有効に利用し、個々の生活をより豊かにする道具として主体的・人間的に生活の中に取り込んでいるのであり、それこそが文化・文明を持った人間の本来的な姿であるといえるだろう。コンピュータなどの電子機器についても例外ではなく、現在はそれらの膨大な情報量や特異性に振り回されている感が否めないところもあるが、その状態から脱却しより人間的・より文化的な使用方法や関わり方が提唱されつつある。
幼児教育はそのような社会の動きからもっともかけ離れたところに位置するように見える分野である。ジャン・ジャック・ルソーが「エミール」の中で記した「自然に帰れ」という言葉を引用するまでもなく、幼児教育に携わるものは「幼児と自然との関わり」を、幼児の発達の最も重要な要素として捉えてきた。筆者はそれを否定するものではなく総論として賛成するものである。しかし「自然との関わり」ということを教条的・情緒的・近視眼的に解釈し、具体的な教育方法として、自然さえ環境として用意すればよい、というような感覚的保育観には無理があると考える。
次に、現在の幼児教育は、その精神や方法の多くを倉橋惣三の考えに負っていることはさほど異論のないところであろう。現に平成2年に施行された幼稚園教育要領は、従来に増して倉橋の実践・研究の影響が見て取れる。上述の「自然との関わり」重視の保育観や、自由で主体的な遊びを中心とする保育方法も、倉橋や和田實ら旧東京高等女子師範学校附属幼稚園に関わる研究者の思想がその源になっていると言っても過言ではない。実際、彼らの思想や情熱は現代の保育関係者の精神的・理論的支柱とすべきことが多い。しかし批判を覚悟で述べるならば、現在の幼児教育の現場はややもすると彼らの精神や思想の継承に留まらず、具体的な保育形態や手法の模倣にまで敷衍するような実践も見受けられる。倉橋は「フレーベルの精神を忘れて、その方法の末のみを伝統化した幼稚園を疑う。定型と機械化とによって、幼児のいきいきしさを奪う幼稚園を慨く。」(倉橋,1933,p.9l.8)あるいは「保育案の危険は、よその保育案を模倣する時に、殊に甚だしい。各の幼稚園は環境を異にしている。如何なる保育案といえどもいずれもの幼稚園にそのまま適用せらるべきことはあり得ない。幼稚園はめいめいの保育案をもたなければならない。そうでないと、幼稚園というものが鋳型にはめられてしまう。」(倉橋,1935A,−坂元,、p.124l.6より引用−)などと、そのような風潮を厳に戒めているにも関わらず、彼らの言を教条的に守り抜き、一字一句違わぬように保育を行ったり、もしくは信仰的にまで彼らを崇め、社会の変化を無視し、または軽蔑、倉橋らの時代の保育手法を頑ななまでに固持するような風潮である。また、倉橋などはその著書などから「自由遊び至上主義」ではなく、子どもの豊かな生活と成長のためなら非常に柔軟に手法を企てていく実践家であったことは明らかであるにも関わらず、現代の倉橋論者といわれる人々から、たとえば保育者の側の意図や計画をほとんど拒否する言動が聞かれる。以上のような現状を考えるに、倉橋ら先人たちの培った保育の本質は、近年に至って発展・結実したと言うより、むしろ形骸化・歪曲化したと言えるのではなかろうか。そしてそのような状況では、社会の変化や新しい道具に対して、今目の前にいる子どもの生活への観察や洞察からの発想ではなく保守的で因習にとらわれたドグマからしか評価し得ない、子ども不在の実践に陥ってしまうことを危惧する。そこで本論文ではまず保育へのコンピュータ導入の現状を紹介し、次に、主に倉橋惣三の思想を手がかりとして、社会の変化やそこで生活する子どもたちの状況に適合させながら、保育現場におけるコンピュータやマルチメディアなどの性質や位置づけについて分析・吟味し、さらには、倉橋らの思想を、硬直化した教典ではなく、いつの時代にも適用できるいきいきとした理論としてよみがえらせる出発点ともいうべき試みとしたい。
本論文では倉橋の思想の中で特に「子どもの自発的行動・遊び」という部分に焦点を当て、遊具としてのコンピュータについて論ずることとし、次回論文では誘導・環境という視点からコンピュータの特質を考察することとする。
※なお、文中の引用中、旧漢字・仮名遣いは現在の漢字・仮名遣いに直した。
コンピュータの性質
コンピュータはその歴史が新しいことや、様々な形で生活の中に普及してきたことなどから、一般に誤解されている部分も多い。そこで、保育におけるコンピュータの意義について吟味する前に、ここでコンピュータそのものの性質について述べておく。
ハードウェアとソフトウェア
一般にコンピュータと呼ばれるものは、キーボードなどの入力装置とディスプレイなどの出力装置を伴ったコンピュータ本体のことを指す。その意味ではワードプロセッサやゲームコンピュータもコンピュータの一種である。ワードプロセッサは文章を書くことに特化したコンピュータであり、ゲームコンピュータはゲームを行うのに最適化したコンピュータである。そのような機械そのもののことを「ハードウェア」と呼ぶ。
ワードプロセッサでもゲームコンピュータでも、機械単独では何も起こらない。それぞれ文章を書くための、あるいはゲームをするためのプログラムを組み込むことで、用途に合った動きをさせることが出来る。そのようなプログラムを「ソフトウェア」と呼ぶ。普通ワードプロセッサでは文章を書くためのソフトウェア、ゲームコンピュータではゲームのソフトウェアしか使うことが出来ないが、いわゆる狭義の「コンピュータ」では、様々な用途のソフトウェアを切り替えて使うことが出来る。狭義のコンピュータでは文章を書くだけでなく、絵を描いたりデータベースを操作したり、通信をしたりするようなソフトウェアが数多く市販されており、使う側(ユーザ)が自らプログラムを作って組み込むこともできる。
コンピュータに対する批判
前述のように、コンピュータはソフトウェアによってその用途や性質が変化するものであるが、一般にコンピュータへの批判はハードウェアに対するものか、非常に限定されたソフトウェアに対するもののように思える。ハードウェアに対する批判、例えば「眼が悪くなる」「電磁波が身体に悪影響を及ぼす」などといったものについては様々な研究や報告がなされており、本論文の対象とはしないが、眼に対する影響についてはゲームコンピュータの画面の異常に速い動きや、画面に近づきすぎる姿勢に問題があるのであって、通常の使用ならさほど影響がないとする説が有力である。
ソフトウェアに対する批判の多くは、ゲームコンピュータのソフトに対するものである。前述した速い動きの問題以外に、「コンピュータと1対1の状態になりやすい」「長時間コンピュータで遊び、他の遊びに興味を示さなくなる」「コンピュータの指示通りに反応する習慣がつき、主体的な行動がとれなくなる」「実体験ではなく架空の体験である」などが挙げられる。これらのほとんどゲームコンピュータのみに当てはまることで、いわゆる狭義のコンピュータにはその批判は当てはまらない。この点については後に詳述する。
保育実践におけるコンピュータ
現在保育実践にコンピュータを導入している、神奈川県川崎市のF幼稚園の事例を紹介し、保育の中での位置づけについて考察を試みる。本節ではあえて用語の定義や倉橋の思想からの吟味は行わず、次節において実践を倉橋の思想に照合していくことにする。
導入の経緯と現状
F幼稚園では「子どもがコンピュータの入力装置を介して何らかの働きかけをすると、コンピュータはその働きかけに応じてさまざまな反応を返す。その子どもが自分の目的にかなった働きかけをすれば、コンピュータは子どもの予測どおりの反応を返すし、逆に自分の目的とは違った働きかけをすれば、予想しない反応が返ってくる。これはまさに同化と調節を促すことになる」(小川,1993,p.88右l.35)という発想をもとに1984年頃からコンピュータを導入した。初期の頃は「幼児用コンピュータ」と称する機種やMSXという機種を6台ほど一部屋(コンピュータルームと呼んでいる)に配置し、クラスの半分の人数(約15人)のグループに30分程度指導するという方法をとっていた。3年ほど前からマッキントッシュという機種に徐々に移行し、方法も、自由遊びの際に子どもの選択により自由に遊ぶという形態にした。コンピュータルームでの活動は、コンピュータの台数が子どもの数に対して絶対的に不足する環境を意図的に作ったため、子どもとコンピュータが一対一にならず、子ども同士が協同したり、時には喧嘩が起きるなど社会性の発達によい影響があったが、一方で、集中して遊ぶ、最後までやり遂げるといった活動が発生しづらいという問題があったため、現在では、コンピュータルームはそのまま存続させつつも、各クラスに一台ずつ導入し、子どもたちが好きなときに遊べる環境にしている。
コンピュータ遊びの状況
F幼稚園では様々な形でコンピュータを保育に導入しているが、ここでは本論文の目的である「遊具としての使用方法」についてのみ述べる。
導入したコンピュータには「絵本」「お絵描き」「ジグソーパズル」「生活」「模擬体験」「録音・再生」などのソフトウェアが組み込まれているため、子どもたちは好きなソフトウェアを選択し、友達と相談したり他の子どもの行っていることを観察しながら遊んでいる。
ソフトウェアは主に市販のもので、子どもの発見的活動を促すために、課題達成的、収斂的なものよりもむしろ探索的、発展的なソフトウェアを導入したが、保育者はあえて学年や発達に合わせるようなことはせず、子どもが自発的に選択するにまかせた。子どもたちは自ら現在の自分の能力や気持ちにあったものを選んであそび、保育者側から見ると明らかに難しすぎるものでも、このも自らのイメージで楽しく遊ぶ、という場面も多々見受けられた。
絵本のソフトウェアは、既存の絵本のようにストーリーを追ってページを進めていくこともできるが、画面に描かれた絵本の中の登場人物や背景などをマウスでクリックすることによってさまざまな動きを見ることもできる。**教育課程総論応答的環境**このような点でこのソフトウェアは、まだコンピュータの経験が少ない子どもがコンピュータと親密になるためには最適なソフトウェアだと思えるが、遊びを観察すると、子どもの働きかけや心持ちの動きに自由度が少なく、活動に発展が見られない。保育者が発展のきっかけを作るか、子どもたち自らが発展できるような環境を整備することが必要であろう。
お絵描きのソフトウェアはほぼ色鉛筆やクレヨンと紙のアナロジーであるが、いくつかの相違がある。たとえば、一つ前の動作(線を描く、色を塗る、等)を取り消すことが出来る、消しゴムで完全に消せる、保存した絵をもとにさまざまな描き加えができる、塗りつぶしが簡単にできる、さまざまな効果の鉛筆やクレヨン、ブラシなどが使える、いろいろなスタンプを押せる、マウスで描くので違和感がある、などであるが、実際のお絵描きでもいろいろな画材を子どもの発達や気持ちの状態に合わせて用意したり、子ども自身が選び取るのと同じように、コンピュータのお絵描きも子どもの表現道具の一つとなり得ると思える。
遊具としてコンピュータは必要なものかという点については、「必要というわけではないが、あると遊びの幅が広がったり、遊びの選択肢が増える」というのが保育者の共通の感想である。これはコンピュータに限ったことではないと思われる。近年の幼稚園設置基準の見直しの過程で、滑り台、ブランコ、砂場という必須遊具・環境の項目を削除するという動向を見ても、「これが無いと子どもは豊かに発達しない」という遊具はなく、今ここで生活している子どもの状態に合わせて柔軟に環境を配置することが肝要であって、ある子どもにとってはこの遊具は有効であるが、他のある子どもにとっては必要ではない、ということはどんな遊具にも共通していると考えられる。
コンピュータで遊んでいる子ども達の姿を観察した結果、コンピュータは子どもたちにとって特別なものではなく、他の遊具と同じように楽しく生活の一部として自然なものになり得るという感触を得た。また、普段の子どもたちの様子も、目的やイメージを持って遊ぶ、傾向が増したり協同して遊ぶ、工夫を楽しむなどの傾向が増したようで、教育的効果も見られる。第1-2節で紹介した問題点については、実践観察から以下のように考えることができた。
「コンピュータと1対1の状態になりやすい」
適切な台数のコンピュータを用意することで、1対1の状態は避けられる。マウスを操作する子どもは1人だが、順番を待っている子どもたちから助言の声が出たり、意見を出し合ったり、意見を調整したりする行動を見られ、社会性の発達にも寄与すると思われる。また、順番を待っている子どもたちも、操作している子どもを見ることによってイメージを広げたり学習しているようで、自分の番になるとさっそくそれを試している姿が見られた。
「長時間コンピュータで遊び、他の遊びに興味を示さなくなる」
基本的にはそのようなことはなく、子どもたちはコンピュータでの遊びに満足すると、他の遊びに移行する。まれに長時間集中してしまう子どもも見受けられるが、このようなことは他の遊びにも見られることであり、保育者の誘導が鍵となるという点では共通のことである。ただし、我々が、積み木に長時間熱中する子どもたちをほほえましく見守るにもかかわらず、コンピュータで同じようなことが起きると心配する、という心情については論をあらためて検討すべきであろう。
「コンピュータの指示通りに反応する習慣がつき、主体的な行動がとれなくなる」
これは完全にソフトウェアの内容や形態に依存する問題である。コンピュータゲームのソフトウェアは子どもを受動的にするような内容や形態なのであって、近年開発されている幼児用のソフトウェアは、子どもが能動的に働きかけることを促すものが多くなっている。実際、今回観察した子どもたちは我々が発見できなかったような機能や場面を自発的に探し出して楽しんでいる。
「実体験ではなく架空の体験である」
幼児の発達には実体験がもっとも重要であることは異論のないところであろう。コンピュータは実体験ではないことから批判を受けることは理解できるが、それでは絵本はどうであろうか。絵本も架空の体験であるが、幼児教育の重要な部分を担っている。予想される反論として「絵本は絵が動かないので、子ども自身がイメージを広げることができるが、コンピュータは絵が動き、子どものイメージを限定する。」というものがある。つまり情報量が増すに従って子どものイメージを限定してしまう、という考え方である。しかし、たとえばグリム童話は本来素話で伝承されてきたが、絵本になることによってかえって子どもたちのイメージを広げてきた経緯もある。素話から絵本そして動画へと、情報量は増加するが、必ずしもイメージを狭める方向ばかりとはいえず、題材や内容、形態、そして保育者の計画などによってむしろ豊かなイメージを生む方向も考えられる。
以上のように、一般に考えられているコンピュータの問題点は、保育者の側が子どもの遊びの姿を吟味し研究を重ねることによって解決し得ること、さらに、既存の遊具では得られなかった効果さえも子どもの生活にもたらす可能性があることが次第に明らかになってきている。しかし、現時点でやはり問題は残る。大きな問題としては、子どもたちはコンピュータ遊びで充実した時間を過ごし、一定の成果を上げているとはいえるが、そこでの経験が生活の他の場面に影響しづらいことである。幼稚園での子どもの生活は、さまざまな遊びが相互に影響し合って総合的な生活として存在することが理想であるが、今のところコンピュータ遊びでの経験は他の遊びに陶冶されていくことが少ない。これは、ソフトウェアの内容と、保育者のコンピュータ遊びへの理解の不足という点が原因と思われる。保育者の理解不足については努力と時間とに待たなければならないが、ソフトウェアの内容については、「誘導的環境」という概念を提案したいと考えている。この概念については次回論文の主題であるので、ここでは省かせていただく。
つけ加えて述べるならば、コンピュータ遊びで着目すべきことは、他の遊びでもよく遊べる子どもがコンピュータでも主体的に遊べるのは当然のことながら、他の遊びや活動で有能感が持てなかったり不安を抱えている子どもがコンピュータで充実して遊び、明らかに心を開放させた様子でまた他の遊びの中に帰っていく姿を数多く見かけたことであった。誤解を恐れずに言えば、他の遊びでは大人や友達からの「評価」を受けやすいのに対して、コンピュータでの遊びはそのような外からの評価を受けにくい傾向があるように思える。
遊具としてのコンピュータの分析
ここではコンピュータを遊具あるいは環境として保育の中に位置づけた場合、どのような特徴を持つか、あるいはどのような問題があるかを、倉橋の「玩具」に関する考察を紹介し、続いてそれらをもとに分析することにする。
倉橋はその著書の中で「遊具」という言葉を用いず、もっぱら「玩具」という言葉を用いている。「遊具」「玩具」のそれぞれの定義、差異を検討することは本論文の意図するところではないが、一般的に前者はおもちゃ全般を、後者は保育現場の中で遊ぶ道具(大型固定遊具を含む)という印象があることを合意しておきたい。
倉橋は児童文化に大変関心を持ち、特に玩具については「玩具教育篇」を著し、情熱的にその効用を説き、さらには様々な玩具について解説を加えている。彼はその中で、玩具の発祥について「人類の中で始めて玩具を作ったものが、子どもであったということは、何んとしても否定できないこと」(倉橋,1935@,p.183上l.14)であり、大人が教育的意図を持って作り、与えたものではないということに留意を呼びかけ、その当然の帰結として「玩具は教育の方便の道具ではない」(倉橋,1935@,p.167l.10)と述べた。つまり玩具は子どもが子どもの生活の欲求から発生し、あくまで子どもの生活を目的とするのであって、決して教育的意図や目的のために玩具を作成したり使用させたりすることのないよう説いている。大人の手で商品化された玩具も、「玩具としての最初の創意は子どもの着眼と着手に基き、それに適切な(時には不適切な)工程を加えて、商品玩具に作り上げてゆくのが玩具製造である。」(倉橋,1935@,p.183上l.14)と、重ねて大人の意図の介入を戒めている。
ここでの彼の論の注目すべきは、玩具を玩具単独で評価してはいけない、という主張であろう。「ここに一つはっきりして置かなければならないことは、玩具と名づけられているもののみが、玩具であるとは限らないことである。」(倉橋,1935@,p.181上l.2)とし、「一方(筆者注:おもちゃ屋で売っている玩具)を狭義の玩具、一方(筆者注:子どもがおもちゃとして扱うもの)を広義の玩具とだけ置く。つまりどっちも立派な玩具なのである。もう一つ言い換えれば、玩具とは、必ずしもアレに限らず、コレに限らず、子どもがおもちゃにするものを言うと、定義にならないような定義だけが都合のいいことになるのである。」(倉橋,1935@,p.182下l.11)と述べている。つまり、子どもにとっての玩具は「すなわち、遊びあっての玩具である。極端にいえば、遊びの中に取り入れたときに玩具なので、遊びの中に取り入れられなければ玩具ではない。つまり、玩具とは遊びから生れるものである。そこで玩具のことを考える前に、子どもの遊びということが、先ず充分考えられなければならない。」(倉橋,1935@,p.185上l.3)のである。
以上のように、倉橋は玩具を子どもの生活の中から生まれるもの、商品玩具も単にその加工品にすぎない、と述べている。その意味でコンピュータは玩具たり得ない。しかし、本節冒頭に述べたように、倉橋は遊具という概念については言及していない。近年テープレコーダーや音楽キーボードなどを遊具として用意している保育現場があるように、遊具とは必ずしも子どもの発想に基づいて発生したものだけとは限らない。「子どもが遊ぶもの」という点に着目すれば、コンピュータは遊具として存在する可能性はあると思える。ただし、遊具といっても倉橋の言う玩具性を失うことは幼児教育の本質である遊びをそこなう恐れがある。つまり、遊具は「教育の方便ではなく子どもの遊びや生活に沿っていること」という精神を踏み外してはならないと考えられるので、コンピュータを知識伝授の目的に使用したり子どもの主体性・自発性を損なうようなソフトウェアを用意することは慎まなければならない。実はこの点については、コンピュータだけに特別に留意する問題ではない。たとえば積み木にしても、知育を目的として子どもに与えたり、ある形に積むことを強制したとすれば、積み木はもはや遊具ではなくなる。コンピュータはそのような目的や手法をとりがちな現状があるので特に心がけておかなければいけないが、むしろコンピュータの使用について保育者が研究することによって、様々な遊具について見直したり、保育自体を吟味し直す機運が生まれる可能性があるのではなかろうか。
また、「玩具を、遊び手が遊ぶものとして捉える」という点もコンピュータを遊具として導入する際の重要な視点であろう。我々はコンピュータは大人が仕事に使うもの、というイメージを持っているが、子どもにとってはそのような既成概念は制約にならない。極端にいえば、子どもは大人用のソフトウェアでも遊ぶ。その限りでは我々はコンピュータを拒否することは慎まなければならないと考える。ただし、その遊びが子どもの主体的な生活や発達を促すか、という点について保育者は注意を払い、ある程度遊びを方向づけることも考慮しなければならないであろう。
現状の問題点
倉橋の提唱する保育観・保育方法を吟味し、保育実践を行う過程で、現時点でのコンピュータの保育への導入についていくつかの問題点を指摘することが出来る。以下に、「コンピュータ自体の問題」と「保育方法や保育者の問題」とに分けて説明し、その解決策を模索する。
コンピュータ自体の問題
3節でも述べたように、コンピュータは遊具として開発されたわけではないにしても、遊ぶ主体としての子どもが「遊び道具」と捉えているという点において、遊具として存在する可能性があるので、ことさら「子ども向けでない」と非難することは当たらない。しかし、元来子ども向けに開発されたものではないので、子どもには使いづらい面があることも否めない。必ずしも子どもが負荷なく使えるようにする必要はなく、むしろヴィゴツキーの唱える「発達の最近接領域」の環境を用意することは子どもの発達に寄与するのではあるが、子どもの気持ちの中での活動目標と結びつかないような障害は、出来るだけ取り除いておきたい。その意味で、入力装置が子どもの体格に合わない、ちょっとした操作ミスによって致命的な故障を引き起こす、子どもの直感をもとに操作することに無理があるなどの問題を内在している機種は避けるべきであろう。
次に、コンピュータの自己完結性の問題である。幼児教育では、学校の教科のように学習目的によって活動を分割することを避けなければいけないことは、倉橋がその著書のそこここで繰り返し述べている言葉、たとえば「幼稚園生活も、一日の中が幾つにも仕切をつけられて、その切れ切れの教育効果を幼稚園の目的とされたのでは寄木細工にすぎません。」(倉橋,1933,p.108l.8)というような言葉を待つまでもなく、保育関係者の共通の認識である。活動が分割されることによって、幼児の本来の生活と遊離してしまうこと、総合的な発達を保障できないこと、主体的・自発的活動になりにくいことがその理由として考えられる。コンピュータは子どもにとって魅力が大きくコンピュータ遊びとして独立し完結的に成立してしまうため、子どもの気持ちの中で普段の生活とかけ離れてしまう傾向があるように思われる。ソフトウェアを選択したり自作したりする際に、他の活動と有機的に関連し、幼児の生活自体を豊かにするよう配慮する必要がある。
保育方法や保育者の問題
コンピュータは子どもにとって楽しい遊具になっている。倉橋の言うとおり、楽しくないものは遊具ではないのであるが、ただ楽しんでいれば、よい遊具ということにはならない。保育者はハードウェア・ソフトウェアを選ぶとき、他の遊具と同様に詳細かつ慎重な吟味を行うべきである。しかし市販のソフトウェアは「多くの子どもたちに受け入れられるように」開発されているので、今保育者の前に生活している一人一人の子どもたちに最適である場合は少ない。「仮に方法が定っていて、その方法を適用したやり方の工夫だけならば、根からそんなにむずかしいことではありませんが、一人々々の子供から方法が生まれると考えるところに、ここにこそ、幼稚園が始終生きている所以を生じ」(倉橋,1933,p.57l.2)というように個を大事にし、「幼児を生活さながらにおいて、しかも教育者の意図を実行せんとするには、機会を捕らえなければならぬ」(倉橋,1933,p.432l.13)というように幼児の生活に応じた保育を心がけるなら、保育者自身がその子どもに即して、タイミング良くソフトウェアを開発する必要があろう。実は、コンピュータが他の市販遊具と決定的に異なるのは、保育者が自らソフトウェアを作成できることである。積み木を自作するのは大変であるが、ソフトウェアは現在でも多少訓練を受ければ自作できる。その意味で、コンピュータは「個を大切にする保育」「手作りの保育」を実現するための有用な道具としての可能性もあるといえる。
遊具(ハードウェア・ソフトウェア)の特徴やないようを吟味する必要とともに、指導の吟味も大切である。遊びは本質的に子ども自身が選択し発展させていくものであるが、保育者はそこに適切な環境を用意したり刺激や方向づけをすることによって教育的効果を上げようとする存在である。最初に述べたように、遊具を与えてこと足れりとすることに対して倉橋は強く批判している。コンピュータのソフトウェアは前述のように自己完結してしまうものが多いため、遊びの発展や他の遊びとの関連づけるために他の遊具以上に誘導が必要である。また、これは他の遊具でも同様であるが、同じソフトウェアでもそれぞれの子供の関わり方によって全く違う性質の遊びになっていることが多いことに注意するべきである。小川(小川,1995A,p46右l.18)は、「たとえば、紙とクレヨンでのお絵かきにとても不安を持つ子どもがいます。一度描いてしまったら「取り消せない」恐怖を感じているようです。そのような子どもたちにはコンピュータのお絵かきは大変有効で、数回コンピュータでお絵かきを経験すると、紙とクレヨンのお絵かきにも自信を持てるようです。しかしその一方で、ただなぐり描きをして「爆弾消しゴム」で消すということを繰り返す子どももいます。その子たちはいつまでたっても「これを描きたい」「こんなふうに描きたい」という意欲や姿勢が見えません」と述べ、個々の子どもにあった関わりの必要を提唱している。
逆に、指導をしすぎることも慎まなければならないことは言うまでもない。大人はコンピュータについて「教えなければ操作できないもの」という先入観があるので、どうしても操作法を教えたり訓練しがちであるが、それでは子供の主体性を損なうとともに、コンピュータは特別なものというイメージを与え、子供の生活と乖離した活動になってしまう恐れがある。
最後に、コンピュータに限らず新しい遊具、新しい保育方法を導入する際の保育者自身の心持ちの問題を指摘したい。倉橋はマンネリを軽蔑しているが、実際には保育者は経験を重ねるにつれ、今目の前にいる子どもの心持ちや生活を新たにすることを忘れがちであることに折に触れて言及している。新しい遊具、新しい保育方法を導入する際にも、従来の自分の保育の枠にとらわれ、それらを避けたり拒否するような頑迷な態度をとる保育者も見受けられるが、しかし、保育は本質的に「人」が行う営みであり、手法や形態が保育を形作っているのではない。倉橋は「あなたの目、あなたの声、あなたの動作、それが常にいきいきしていなければならないのは素より、あなたの感じ方、考え方、欲し方のすべてが、常にいきいきしているものでなければならない。どんな美しい感情、正しい思想、強い性格でも、いきいきしさを欠いては、子どもの傍に何の意義をも有しない。」と訴え、「心が動く保育者」を求めている。コンピュータに対しても、先入観や経験にとらわれず、いきいきしい心で接することが出来れば、様々な面で保育者自身も成長できるのではないだろうか。
おわりに
以上、保育現場へのコンピュータの導入に関わる諸問題について、実践の成果を題材に倉橋の考えを援用して俯瞰してみたが、倉橋の思想という大海の中で水面に浮かぶ塵埃を掬うようなもどかしさを感じている。しかし、我々大人は「今」を生きているが、今目の前にいる子どもたちは確実に「未来」を生きていくのである。過去や現状に安住し、これから先の社会に待ち受けている文明・文化に対し目をつぶらず、小さな一歩でも良いから歩みだしてみようとの試みであると評価していただきたい。本論文が、我々を超えていく存在としての子どもを自己実現・自己充実させていく過程としての保育を考えていく上で幾ばくかの材料あるいは刺激になり、保育者一人一人が自己の保育観の見直しをする手がかりになれば幸いである。
後 記
※本論文で再三述べてきたことだが、筆者はコンピュータの可能性を「遊具」としてだけに限ってはいない。次回論文では倉橋の誘導保育案の概念を援用しつつ、これをより幅広い効果のある方法として検討したいと考えているが、ひとりでも多くの保育関係者がコンピュータに関心を持ち実践的研究を重ねれば、筆者の思う可能性の他にもさまざまな利用法が考えられるであろう。今後の発展に期待するとともに、筆者自身も子どもの幸せのために努力していく所存である。
※ 本論文は洗足学園特別研究費の援助を受けて行っている共同研究の一環である。
※ 本論文を執筆するに当たって、本学幼児教育科・野口眞代教授に貴重なご助言を数多くいただいた。ここに心より感謝の意を表すものである。
引用・参考文献
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倉橋惣三,1933,「幼稚園真諦」,倉橋惣三選集第一巻p.7~p.120,フレーベル館(1965)
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倉橋惣三,1935A,「系統的保育案の実際」,日本幼稚園協会
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三宅なほみ,1985,「教室にマイコンをもちこむ前に」,新曜社
三宅なほみ,1994,「コンピュータ」,講座・幼児の生活と教育2生活と文化,岩波書店