「視聴覚教育」チャイルド社(教科書・1986)
幼児教育の世界では、新素材や電気を使うような新しい遊具 ・ 環境、特にパソコンやニューメディアに対して拒否反応を起こす人が多い。「子供にはやはり自然に近いものを」とか「新しいものには温かみがない」「自発的な遊びにならず、機械に使われてしまう」というような声をよく耳にする。
たしかに子供がファミコンなどにのめりこんで、屋外で伸び伸びと体を動かすことがなくなり、友達関係も希薄になる、という状況を目の当たりにすると、子供たちを非人間的なものから守りたいという気持ちが沸いてくる。
しかしそうやって新しい遊具を最初から排除する前に、そのようなものが本当に非人間的なのか、子供たちに悪影響しか与えないのかを考えてみる必要はあるのではないだろうか。教育要領の改訂をきっかけに、倉橋惣造の思想が改めて脚光を浴びているが、彼こそ伝統にとらわれず、その時代の最先端のものも含めて本当に子供の発達にとって望ましいものを捜し求めた人である。彼の思想に共鳴するなら、少なくとも新しいものを徹底的に研究してから、その導入の是非を考えるべきであろう。
前置きが長くなったが、それではパソコンとかニューメディアとはどんなものなのだろうか。
メディアとは、表現や通信の手段とか道具のことである。だからニューメディアとは「表現や通信の新しい手段や道具」ということになる。テレビやカセットテープも、紙芝居や絵本でさえ、その時代にはニューメディアであった。
現在のニューメディアとしてすぐに思いつくのはパソコンであろう。ほかにも音楽ではシンセサイザー、映像ではハイビジョンなどがあるが、そのすべてに共通しているのは、コンピュータを内蔵しているということである。一時代を画したファミコンも、ゲーム用に特殊化したパソコンといえる。このことが幼児教育関係者の拒否反応を引き起こしているといえるが、ファミコンはなぜ問題となったのであろうか。
私も基本的にはファミコンはよくないと考えているが、それは、ファミコン(厳密にいうとファミコンのゲームソフト)が子供を奴隷にするからである。ファミコンでゲームをしている子供たちは、テレビの画面から「こうしろ、ああしろ」と、様々な行動を強制される。その時の子供たちは何も創造していないし、全く自発的でない。しかしあの画面の動きや調子のよい音楽は子供にとって麻薬的である。子供たちはかくしてラッキョウの皮をむきつづける猿と化す。本来子供は、自分をとりまく環境に自ら積極的に働きかけ、工夫し、創造しつづけることによって発達していくのに、これではまともな発達はおぼつかない。しかもファミコンに魅入られた子供たちは体を動かして遊ぶことを面倒くさがり、友達との人間的な交流を疎ましく思う傾向がある。
幼児用のパソコンソフトが開発され始めた当初、ほとんどのソフトは、ファミコンの、子供を奴隷にするテクニックを取り入れて、算数や文字を教えるというものであった。このような傾向は、子供の奴隷化と、幼児の発達に即していないという、二重の意味で問題であった。多くの幼稚園が導入を見合わせたのは当然であろう。しかし、最近開発されたものの中には幼児期の特性がよく考えられ、しかもこれまでの遊具にはない長所を持ったものが出てきている。例えばあるパソコンソフトは、子供が働きかけないと何も起きないし、工夫したりやってみたりという気持ちを引き起こすようなしかけが施してある。さらに、このソフトで遊んでいると屋外で葉っぱや花や虫などを探してくることも必要となり、子供たち同士で協力して遊ぶようにもできている。そのようなことは絵本など既存の遊具でも実現できるとも考えられるが、このソフトは「子供が働きかけるとそれに応えてくれる」という、発達心理学や教育心理学のいうところの「応答的環境」を実現しているのである。
もちろん、パソコンなどのニュ ーメディアが今までの遊具や教具より優れているからとって代わるべきだと言うのではない。また、これからの時代はニューメディアだから子供のうちからなじんでおかなければ、というようなことでもない。本質的に子供の豊かな発達を促すようなものがあれば、教師は積極的に取り入れていかなかればならないということである。
新しい遊具や教具の導入や運用に当たって慎重になるのはニューメディアに限らず当たり前のことである。その遊具や教具が本当に子供の生活や発達に良い影響を与えるのか、幼稚園の保育目標に反しないか、教師がその遊具や教具の本質を見極め、子供たちがその生活を創造していくうえで有効的に使っていけるように援助できるかなど、冷静に判断することが必要である。